令和4年度同窓会記念誌 希望の光 ~新しい世を照らせ~
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16 甲府一高に赴任したのは昭和60年4月、44歳の時だった。平成7年3月まで9年間勤務した。自分の母校で教壇に立つことは感慨深かった。自転車で通った頃の校章を掲げた重量感のある校舎が目の前にあった。赴任した年は3年生の担任になり、翌年、この学年の所属となって、1年次から卒業まで学級担任を務めた。偶然とはいえ、この学年は因縁が深かった。 学年主任の千野恒夫先生は、私の高校時代の2年上の先輩であり、大学時代の野球部の先輩でもあった。入学してきた生徒の中には、妻が春日小学校(現舞鶴小)の教師だった時の教え子たちが大勢いた。私の高校時代の同級生の子も何人かいた。私自身の教え子の子もいた。特に、いたずら小僧だった加賀美準一君や清水真理子さんのことなど、妻から話をよく聞かされていた。加賀美君は教卓の前の特等席での授業を憶えているかもしれない。加賀美君のお父さんは私の高校時代の同級生でもあった。清水さんは、レコードに吹き込んできた歌を、家で妻に歌わされたこともあった。この二人は卒業後も何度も家を訪れてくれた。 毎年、クラス替えをするため、教師の所属学年は変わらなくても、同じ生徒を3年間担当することは少ない。3年次、文系・理系の男女比から女子クラスをつくることになった。女子クラスの8組を担任することになった。担任教師の中で私がいちばん年長であったという単純な理由からであったが、私の子が2人とも女で、生徒たちと同じ年頃であったので、父親的な感覚で生徒に関わってくれると学年主任が考えたのかもしれない。 クラスの生徒たちの大半は、初めて担任として顔を合わせる子たちであった。46人の女の子たちを前にして、これから1年間どんな担任であろうと思ったかは、今は思い出せないでいる。甲府工業高に勤務していた時に男子クラスは何度も担任したことはあった。20代の頃、峡北高校(現北杜高)で女子だけの家庭科での授業経験はあったが、女子クラスの担任は初めてであった。卒業式の後のHRで、ひとり一言ずつ述べてもらった時、担任として、してあげられた特別のことはないのだが、このクラスでよかったと聞いた時は嬉しかった。心残りは、強行遠足の時、臼田検印所の担当だったため、クラスの子たちを迎えてやれなかったことだ。 一高の女子クラスはこのクラスが最後だったようだ。私が担任として送り出したクラスも最後になった。思えば、私自身の卒業時のクラスが三の八であり、同窓会の幹事学年をきっかけに「三八会」がつくられた。ちなみに、私の長女の夫がこの学年で、冨岡姓になったが、現在、冨岡夫婦と一緒に暮らしている。奇縁・因縁の学年であり、三の八である。奇縁・因縁そして三の八8組担任 荻野 秀男

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