令和4年度同窓会記念誌 希望の光 ~新しい世を照らせ~
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 第142周年同窓会総会おめでとうございます。当番幹事の皆さん、コロナに翻弄され続けで長い間誠にご苦労さまでした。今世紀は感染病が続くと言われ、また世界の最も大切な価値観である「自由」を根底から崩す戦争が起こされ、世の安寧、特に世界の平和は今切実な誰もの願いです。私もこのことを踏まえて、私の高校1年の時、80周年記念事業で来校された石橋湛山先生の講演が強く深く印象に残っており、先生の講演を思い起こしながら少し書かせて戴きます。 先生は東京で生まれ、父親が日蓮宗の僧侶で、幼少から若草の長遠寺に預けられました。明治28年に甲府中学に入学しましたが、多感な年頃であり相当はめを外した様で2度落第を経験しています。しかし、札幌農学校を出た大島正健校長に出会う幸運が転機となり、それから勉学に精励しますが、旧制一高の入試にまた2回失敗します。でも早稲田の哲学科に入るや、ここでも日本のプラグマティズムの草分けの田中玉堂先生に出会って、その実学的な研究に多大な影響をうけ、卒業時は甲府中学以来の同級生中村星湖と共に首席で卒業します。この2度の幸運な出会いは、先生の人生に深い影響があったと言われており、人生何が幸運となるか分かりません。 その後、東洋経済新報社の敏腕記者として鋭い数多の論説で頭角を現し、大正デモクラシーの一翼として覇権主義の大国化へ邁進する潮流に抗し、軍備制限・植民地放棄・普選等を主唱して「小日本主義」を標榜した筋金入りのリベラリストとして活躍します。門外漢の経済学を独学で学び、通勤の電車内でもケインズをはじめ著名な経済学書を原書で読破し、昭和冒頭の「金融恐慌」に始まる経済の混迷から脱する方策に、いち早くケインズ理論を以って論陣を張った在野の傑出した論客でありました。 戦後、入閣もしますが、鳩山内閣が退陣した後、岸信介氏を僅差で破って首相に就きましたが、病のため僅か2か月で潔く辞任したところ、先生の生き様を知る世論は称賛を惜しみませんでした。それから数年しての講演でしたので講堂内は静粛の中にも熱気が充満していました。その講演内容の多くは忘れましたが、若い時に目標を抱きそれに夢中で取組むことの大切さや、例のボーイズビーアンビシャスだけはまだ憶えています。何事も「一所懸命」精魂を込めて一道に抜けよとのメッセージだと理解しています。一道に秀でた人には学歴の有無を問わず、人を強烈に魅了する力が備わるものだと、また、風雪に耐え抜いたキャリアはその人を雄弁に語っており、正しく生きた「名刺」だとも、この歳にして強く理解しており、この様な人は皆さんの中にも屹度いるはずだと思っています。 紙幅は既に大幅に超過しましたが、皆さんの2、3年次担任をしたクラスの思い出を一、二綴ってみます。この2年次は木造二階建ての校舎でしたが、多士済々の生徒がいて忘れられません。秀才もいれば、プロ歌手志望の女子生徒、修学旅行ではガイドもビックリしたポップスでは既にプロ級、またヤンチャの運動神経は抜群の生徒、バイク事故で顔を腫らしても喧嘩をしたと言い抜けてしまう生徒、全く他のことには関心を示さない「自己中」の生徒等々、多彩な玉石混交の集団でした。3年次は落ち着いた品のある生徒が多くいて、いたって順風でしたが、突如、強行遠足の出発の際、校舎に下げられた「垂れ幕」には肝を冷やされました。昭和天皇が危篤でしたが、その文は「侮辱」している内容だとテレビを視た方から厳しいお叱りの電話でした。千野学年主任と望月校長先生の的確で恩情ある措置で事なきを得ましたが、常々「ノウテンキ」な私もこの時はドッキリしたものでした。 この様に甲府一高にはバラエティーに富む多種多様な素質を持った生徒が多く、学校は最も大切な価値であるリベラルな雰囲気で許容範囲も広くて懐の奥深い学校であったと「今は昔」とつくづく懐かしく思い出しております。15甲府一高の思いで7組担任 薬袋 武雄

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